■上石神井(かみしゃくじい)
上、下石神井村はもとはひとつであった。『小田原衆所領役帳』に「太田新六郎知行十七貫五百文江戸石神井」とある。新六郎は太田資高の子で、母は北條氏綱の娘、当時江戸随一の在地土豪であった。永禄6年(1563年)、北條氏康に反抗したが安房に敗走した。『新編武蔵風土記稿』には、その時この辺は闘いの衢(ちまた)となり、田畑、屋敷は荒廃した。のち、徳川家康が江戸入りしたころ、高橋、尾崎、田中、桜井、本橋などという人たちが開墾した、とある。
明治22年、町村制施行で石神井村大字上石神井となり、昭和7年、板橋区成立のとき上石神井1、2丁目となった。2丁目は石神井川の北、今の石神井台である。1丁目は昔のままの上石神井の地名で、昭和60年6月1日に住居表示が実施され、1〜4丁目の新しい街区ができた。
石神井川を北にのぞむ早稲田高等学院(上石神井3−31)は、文明9年(1477年)、大田道灌が石神井城を攻めたとき布陣した愛宕(あたご)山である。愛宕橋の愛宕はその名残りである。
智福寺(同4−9)は昭和40年、港区芝田町から現在地に移った。境内に江戸時代から有名な塩を上げて願いごとをかなえてもらう「塩上地蔵」がまつられている。
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