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練馬の地名 今むかし(谷原)

ページ番号:286-963-287

更新日:2010年3月17日

谷原(やはら)

 昭和40年、住居表示が行われた。まえはヤワラといっていたが、住居表示でヤハラと読むことになった。昭和7年、板橋区編入のとき、谷原村から石神井谷原町2丁目へ。練馬区独立後、石神井の冠称をとった。住居表示では旧谷原町2丁目を目白通りで二つに分け、南を高野台、北を谷原とした。北側に谷原小学校があったからである。
 目白通り谷原の円形ガスタンクは、ドライバーにとって格好の目印となっている。そばの交差点を谷原の五差路というが、実は環状8号線につながる補助134号線が開通して六差路となった。また関越自動車道の基点でもある。
 谷原が歴史に初めて見えるのは例の『小田原衆所領役帳』で、「太田新六郎寄子衆、壱貫七百文、石神井谷原在家、岸分」とある。岸という武士は谷原のほか、葛西や田端などの在家も知行していた。在家(ざいけ)とは中世に、寺社の荘園内にあって、その寺社と関係ある名主級の家や耕地のことをいった。谷原に長命寺が創建される以前のことである。
 谷原の語源は、阿原(あわら=浸水しやすい低地)のアが、谷地(やち=谷あいの湿地)のヤと混同したものといわれる(柳田国男「地名考説」)。
 三軒寺(谷原6-8)は関東大震災で全焼、そろって築地から移転した真龍寺、宝林寺、敬覚寺をいう。

ねりま区報 昭和60年7月11日号 掲載

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