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練馬の地名 今むかし(南田中)

ページ番号:551-783-538

更新日:2010年3月24日

南田中(みなみたなか)

 昔は田中村といった。天正18年(1590年)の徳川家康江戸入府のころは、となりの谷原村とともに増島左内という人の領地であった。その後、幕府の直轄領となり、江戸時代中ごろ谷原村の北(今の三原台)に飛地を開墾し、田中新田を拓いた。
 改修前の石神井川両岸、今の南田中団地一帯は田中村の水田であった。田んぼを前にした南側台地から田中村はひらけていった。そこには今も橋の名に残る長光寺や薬師堂という古い寺院があった。
 元禄9年(1696年)、むらの南端に千川上水が通じた。10年後、灌漑(かんがい)用水として利用できるようになったが、用水は田中村を素通りしていた。本格的に利用されるようになったのは明治になって八成(はちなり)水車が最初であった。
 明治22年、町村制実施で石神井村の大字田中となり、昭和7年、板橋区のとき南田中町となった。それまで同じ村であった田中新田は、分かれて北田中町となった。
 昭和46年、住居表示によって北田中町は三原台に変わった。南田中町でも新町名が審議された。北のなくなった今南田中でもあるまい、という意見もあったが、南田中を踏襲する案が有力であった。48年住居表示が実施され、南田中に決まった。
 観蔵院(南田中4-15)には江戸中期から明治初めまで寺子屋が営まれていた。境内には筆子たちが建てた師匠の供養碑がある。
 十善戒寺(同5-20)の本堂は当地の名主屋敷を移築したものだという。

ねりま区報 昭和59年12月11日号 掲載

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