武蔵国(むさしのくに)、豊島郡(としまぐん)、新座郡(にいざぐん)
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ページ番号:289-676-709
更新日:2010年3月26日
武蔵国(むさしのくに)、豊島郡(としまぐん)、新座郡(にいざぐん)
江戸時代、現在の練馬区にあたる地域は、武蔵国の新座郡(橋戸村、小榑村)と豊島郡(その他の村)に属していた。武蔵国は大化の改新で無邪志国(むざしのくに)と知々夫国(ちちぶのくに)を合わせ一国として成立した。今の東京都・埼玉県・神奈川県横浜市・川崎市の地域である。
語源については、本居宣長の説が知られる。もとムサの国と称していたのをムサ上(かみ)とムサ下(しも)に分け、前者はサガミ、後者はムサシとなったというのである。蔵をサシと読むのは、地名は好字・嘉名二字を用いよとの官命によった。もともと無理な話で、これが各地でとんでもない地名説話を生むもととなった。
8世紀半ばには21の郡があった。
豊島郡は現在の練馬・豊島・板橋・北・荒川・台東・文京・新宿の各区と千代田・港・渋谷区の一部である。初見は『続日本紀』で、砥島(としま)ともかく。郡名の由来は、沿岸に多くの島があることによる。『和名抄』は郡内の郷を日頭(ひのと)・占方(うらかた)・荒墓(あらはか)・湯島・広岡・余戸(あまるべ)・駅家(えきか)と載せる。練馬・板橋は広岡郷とされている。
平安末期以来、郡内は秩父氏の流れをくむ江戸氏や豊島氏の勢力下となる。その後、太田・上杉・北条・徳川各氏の支配交代が行われ、明治維新を迎える。明治11年、南、北豊島郡に分かれ、練馬の各村は北豊島郡に属した。同29年、南豊島郡は東多摩郡と合併して豊多摩郡となった。
新座の地名は新羅が転化したものといわれる。『続日本記』には天平宝字2年(758年)、新羅から渡来したひと74人を武蔵国の未開拓地に移住させ、新しく新羅郡を置く、とある。今から1千200年前のことである。平安時代には新座郡と書いて、ニイクラと読まれていた。江戸時代の享保2年(1717年)、郡名の呼び方が定められてからニイザというようになった。
明治22年、町村制の施行で小榑村(こぐれむら)と橋戸村は合併して榑橋村(くれはしむら)となった。同24年、それまで埼玉県新座郡に属していた榑橋村と新倉村の長沼・久保原・長久保(大泉学園町8丁目の一部と9丁目)は東京府に編入され、石神井村大字上土支田と合併、大泉村が成立した。
明治6年頃の地名
ねりま区報 昭和61年4月1日 掲載


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