上板橋村(かみいたばしむら)
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ページ番号:855-611-641
更新日:2010年3月26日
上板橋村(かみいたばしむら)
現在の小竹町、旭丘
源頼朝は治承4年(1180年)、下総から武蔵に入ったとき、松橋という所に陣をとった(源平盛衰記)。この松橋は板橋の誤りとされている。また、頼朝挙兵の報を奥州平泉で聞いた義経も、兄のあとを追って足立郡小川口(こかわぐち)(埼玉県)から板橋を経て武蔵府中へ向かった。平安時代末期から板橋は、交通の要地であったのである。
『小田原北条役帳』には板橋や江古田の地名が見える。
江戸時代はじめに、上・下板橋村に分かれた。
『新編武蔵風土記稿』は上板橋村の小名として小竹、江古田、向原、小山、毛呂、根ノ上など11を記す。
小竹はコタケともヲタケともいう。コもヲも単なる美称であろう。タケは植物の竹と地形的タケの二つが考えられる。
中世以来、屋敷や構(かまえ)の周辺に竹を植えて遠望を防ぐとともに、敵への守りとした。そのような所にタケのつく地名が多い。先年、小竹遺跡から江戸初期か、それ以前の大きな建物の遺構が発見された。竹を巡らした館(やかた)でもあったのであろうか。
地形のタケは高い所や崖をさす。いわゆる岳(たけ)である。この辺りは起伏の多い所で、台地上に集落が、低地に水田が営まれていた。
江古田、地名はエゴタ、駅名はエコダ。江戸時代は多摩郡江古田村(中野区)の新田であった。地名の起こりは荏(え)ごまの栽培をしていたからとか、エゴの木が生えていたからといわれる。地形的には谷などの水の流れ込んだ所を方言でエゴという。上板橋村の江古田は本村の地名を借りたにすぎない。
小山、毛呂(もろ)(茂呂とも書く)、根ノ上(かみ)は合併後、住居表示で小茂根(こもね)(板橋区)となった。向原は地下鉄有楽町線の駅名「小竹向原(むかいはら)」となっている。
昭和19年、板橋区に練馬支所ができ、小竹町(ちょう)と江古田町(ちょう)(現旭丘)は練馬支所管内となった。同22年8月、練馬区が板橋区から独立したとき、両町は練馬区になった。
明治6年頃の地名
ねりま区報 昭和61年3月21日号 掲載


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